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新潟でプロ野球選手(NPB)を目指した5年間で今がある!

-アスリートのセカンドキャリア- 中西 啓太さん KEITA NAKANISHI 2015年移住

甲子園とプロ野球選手を目指す

子どものときからプロ野球選手になりたかったという中西さんは、ダイエー(ソフトバンク)等で活躍した小久保裕紀さんなどを輩出し甲子園に出場したこともある和歌山県立星林高校でピッチャーとして甲子園を目指しました。 秋の県大会で準優勝(決勝の対戦相手は智辯和歌山高校)を果たしますが、残念ながら甲子園出場は叶いませんでした。高校卒業後は、奈良県の帝塚山大学に進学。そこで、プロ野球選手(NPB)を目指し練習や経験を積み重ねました。

しかしドラフト会議で指名されず、社会人野球の道も4年生の10月に受けた会社が不採用となり、「野球の道に賭けていて他の就職活動はしていなかった。野球浪人などいろいろなことを考えました」と中西さんは当時を振り返ります。その後、独立リーグを目指し、地元に近い四国アイランドリーグなどを候補に考えていました。そんな中で「うちに来ないか?」と声をかけてくれたのが新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ(新潟アルビBC)の辻和宏部長でした。

初めての新潟は大雪。「ここで野球ができるのか?」

新潟アルビBCでプロ野球選手(NPB)を目指すことにした中西さんが、温暖な気候の故郷の和歌山から新潟へ引っ越したのは2015年2月、22才の時のこと。日本海の荒波を見て景色が大きく変わったことを実感し、長岡では生まれて初めて雪壁を見て、カルチャーショックを受けたそうです。「ここで本当に野球ができるのかと思いました」。

しかし、その後、27才まで新潟アルビBCの選手として活躍しました。「一般的に25才がNPBへの入団の限界と見られている中、5年間もNPBを目指してやらせていただけました」と感慨深く話していました。

ピッチャーから営業マンに転身

2019年12月、5年間の新潟アルビBCの選手生活に別れを告げて、同社の営業部で営業マンとして働くことになりました。多くの選手が引退と同時に故郷に帰る中、中西さんは、新潟に残った理由をこう語ります。

「新潟に来た当初は、知人は誰もいませんでしたが、試合などで県内各地を回る中で多くの温かいサポーターやスポンサーの皆様と出会い、人間関係の輪は新潟でも広がっていきました。例えば今は閉店してしまいましたが、食事面から支援してくれた長岡の『どさん亭』のご夫婦に出会えたのは大きいです。新潟のお父さんお母さんのような存在で、今でも時々お会いしています」。

新規クライアントの獲得から設営までこなす

営業の道を歩むこととなった中西さんですが、全く経験したことのない世界で、最初はスーツを着て、慣れない電話でのアポ取りを上司に相談しながら行っていたそうです。ただ、今ではすっかり慣れて、新規クライアントの獲得に向けて、企業を訪問し、球団の説明を行う日々を過ごしています。

また試合のある日は、ボランティアの力を借りながら、球場での設営を行うなど、NPBを目指す選手たちを縁の下の力持ちとして支えています。

休日はキャッチボールや観光地巡り

2019年2月に長岡市の会社員、彩さんと結婚し、休日は、奥様とショッピングモールや観光地に出かけたり、体を動かせる所に行ったり、キャッチボールをしたりしているそうです。「いまはコロナ禍でなかなか観光地には行きづらいですが、西蒲区の上堰潟公園や長岡の丘陵公園、温かい時期は海にでかけることもあります。休日にリフレッシュできるスポットが身近にあるのも新潟の魅力ですね」。

新潟の野球のレベルアップに貢献

かつて野球後進県というイメージが強かった新潟県ですが、最近では、日本文理高校の甲子園での活躍があったり、新潟アルビBCや新潟医療福祉大学からプロ野球選手(NPB)が輩出したりと新潟の野球を取り巻く環境は大きく変わりました。

そんな中、営業の仕事に加えて中西さんは、地元の小学生を対象に開催されている野球塾で指導者を務め、新潟の野球界のレベルアップにも奮闘し、かつては想像できなかった「新潟の地からプロ選手を目指す」という環境づくりに励んでいます。「野球だけでなくサッカー、バスケットなど、これだけの規模でプロスポーツチームが存在し根付いているのは、新潟県に来て「凄いな」と感じたところです」。地域にプロスポーツチームがあるから、スポーツに親しむ子どもたちが増え、学生たちのレベルアップにも繋がっています。これを途絶えさせてはいけないと感じています」。